イワキ創業40周年の社史をもとに、イワキの歴史を紐解いていくこのコーナー。
文字通り「ポンプに賭けた」男たちの熱いドラマをお伝えしていこうと思っています。

ついに念願の“新築ビル”に移転

1963(昭和38)年、初めてケミカルポンプの新聞広告を出し、日本化学会付設展示会へも初出展を果たしたイワキ。どちらも「イワキケミカルポンプ」と大きく銘打って、ひとまず社名を覚えてもらい、ケミカルポンプという名前を広めようとしていたわけです。数々の展示会に出展を行い、「ケミカルポンプのイワキ」を業界に猛烈にアピールしていきました。

その戦略はみごとに的中! 同年イワキは、本社を旭町にあるモルタル塗りの古い建物から岩本町の新築ビルに移転することができたのです。共同ビルではありましたが、昭和通りに面したそのビルからは、道路中央にグリーンベルトが広がり、都電が走っているのが見下ろせました。

もちろん、高速道路などはまだ影もカタチもない時代のことですが、移転先のビルは山手線の電車からもよく見えました。

今では考えもつかないほど高層ビルの少ない東京で、9階建ての新しいビルからは、東は浅草橋、西は八重洲の新日鉄ビルまでが見通せました。

新しいビルに移ったことで、社員もみな少し偉くなったような気がして、気持ちも自然と盛り上がっていきました。

しかも全館冷暖房完備でしたからなおさらのことです。

新築ビルに本社移転
1963年(昭和38年)に移転した、全館冷房完備の共同ビル(千代田区神田岩本町)

当時としてはかなりぜいたくな新築ビルで、旭町の事務所からみればたいへんな出世でした。

そんななかで社長の藤中は、社員たちの喜ぶ顔を見ながら、自分がもっと製品の開発、製造にウエイトを置くために、営業の実活動を信頼でき、実力のある人間に任せることを考えていたのです。

イワキ大躍進のまえぶれ

思えば昭和30年代(1955年〜1965年)は、戦後日本人の生活が大きく変わった時代でした。

1956年(昭和31年)に発表した経済白書では、経済企画庁が「もはや戦後ではない」と表明し、それが流行語にまでなりました。

1960年(昭和35年)に池田内閣が発足。国民所得を10年間で倍増するという「国民所得倍増計画」を唱え、その翌年には東京オリンピックの招致が決定し、オリンピック施設、空港、宿泊施設、それらを結ぶ交通網の整備のために建築ラッシュがはじまったのです。

当時のイワキはそんな時代の波にうまく乗れたわけで、1964年(昭和39年)になると、イワキは大阪で行われた国際見本市に初出展を果たしました。「展示会荒らし」の異名をとるイワキでしたから、これまでも学会の併設展などへの出展はすでに積極的に行っていましたが、国際見本市ほどの大きなスケールの展示会は初めての経験でした。

大阪国際見本市に出展 1964年(昭和39年)

展示物の準備から、展示会場への搬入・搬出、来場者の対応など、全員で力を合わせて行ったのはいうまでもありません。努力の甲斐あって、結果は予想以上の反響で、みな大いに気をよくしました。

その後も展示会作戦を継続し、じわじわと「ケミカルポンプのイワキ」という名を定着させていきました。

1965年(昭和40年)ころは、「岩戸景気」と「いざなぎ景気」のちょうど谷間に当たる不況で、新卒者にとっては就職難の年となりましたが、イワキは「ジュース自販機向けラボポンプ LP-1」がヒットしたおかげもあって、かなりまとまった採用を行い、初任給も平均を上回っていたようです。

東京国際見本市に出展したイワキのブース 1965年(昭和40年)

1964年(昭和40年)には東京国際見本市に出展、1966年(昭和41年)には、埼玉県入間郡三芳村に東京工場(現技術センター)を新設などなど、イワキは次なる夢の実現に向かって足場を固めていくことになるのですが・・・

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