イワキ創業40周年の社史をもとに、イワキの歴史を紐解いていくこのコーナー。
文字通り「ポンプに賭けた」男たちの熱いドラマをお伝えしていこうと思っています。

営業部を弱冠29歳の上條に一任

「route(順路)」ではなく「root(根底/本質/根源)」を探れという営業戦略のもと、「他市場水平展開」を狙ってきたイワキでしたが、そんな中、社長の藤中は、それまで理化学機器とケミカルポンプの2本立てだった営業部を統合します。1964(昭和39)年のことでした。

驚くべきことに、その統括を任されたのが、入社6年目にして弱冠29歳の上條でした。
最終的にはイワキの副会長を務めることになった上條の入社は1958(昭和33)年。
彼は、台風一過のある晴れた日、新聞の求人広告を見て旭町の本社を訪ねて来たのです。

学生時代はラグビーと柔道ばかりやっていたという彼は、押しが強めの鋭い目つきの若者でした。その年の春に卒業し就職したものの、会社が気に入らなくて飛び出すこと2回。なかなか一筋縄ではいかない人物だったようです。

しかし、イワキに入社してからは、積極的な行動なら何でもOK!というイワキのやり方が性に合いKM式のシェーカーが開発されればKM式シェーカーを、ケミカルポンプ営業部ができればケミカルポンプを、LP-1が開発された時にはLP-1を…という具合に、常にイワキの一番新しい製品、新しい市場、最前線 の営業を担当してきました。

ジュース自販機向けのLP-1が伸びる以前、まだケミカルポンプが理化学機器に比べて売上げが上がらず社内で肩身の狭かった時分にも、「いつかぜったい抜いてやる。売上げの比率を引っ繰り返してやる」というほど負けん気の強い好男子で、やがてはそれを現実にしてしまうのです。

大いなるロマン 日本中にイワキのケミカルボンプを!

「日本中にイワキのケミカルポンプを広めてやる」

これが、イワキの営業部を一手に任された上條が最初に立てた目標でした。細かいことはどうでもよい。日本―になりたい・・・純粋にただそれだけでした。

当時のイワキの会社としての規模からいえば、あまりにも遠大な目標ではありましたが、上條にしてみれば「俺がやるんだから一番にならなきゃつまらないじゃないか」という気持ちだったようです。

「社長は、技術や情報で日本一の製品をつくろうと努力している。営業を預かった自分は、営業の力で日本一になってやるのだ!」と考えていたわけです。創立10年にも満たないイワキでしたが、そこには壮大な夢を持った男たちが集まっていたのです。そして、この年こそがイワキの急成長が始まった年でした。

上條はまず、営業部員全員の行動指針がなければならないと考えました。イワキは企業としてまだ若く、世間から見れば“寄せ集め”に過ぎません。ですから「まだまだ苦しい闘いは続くだろう。だからこそ、全員が心をひとつにするために、強力な行動指針が必要である」と考えたのです。

個性が強く、自分の意志を通すためには大胆不敵、少なくとも表面は攻撃的に思える風雲児・上條にして、やはり「すべての力の結集」こそが個人の持ち味を上回ると考えていたわけですが・・・

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