イワキ創業40周年の社史をもとに、イワキの歴史を紐解いていくこのコーナー。
文字通り「ポンプに賭けた」男たちの熱いドラマをお伝えしていこうと思っています。

初めての自社商品『KM式万能シェーカー』が大ヒット!

試練を乗り越え、商社から「メーカーへの道」を歩き始めたイワキ。理化学機器「シェーカー」の自社開発に乗り出しました。

当時(1950年代半ば頃)、新しい分析方法として溶媒抽出法がさかんに用いられるようになり、シェーカーはひっぱりだこ。イワキも販売特約店として、他社メーカーの製品を扱っていたので、そのシェーカーの実用新案に抵触せず、しかも互換性のある新製品を目指し、社内でアイディアを出し合う日々が続きました。

その一方で、科学者として有名な本島健次博士にも指導を仰いでいました。本島博士とはイワキを創立したころからの古いお付き合いで、こうしたご縁の力も借りながら、苦労と努力の末に、やっと自社開発品として完成したのが『KM式万能シェーカー』です。ちなみに、商品名の「KM」は、敬意を表して本島博士のイニシャルを使わせていただきました。

発売当初こそ、多少のクレームがあったものの、『KM式万能シェーカー』は改良に改良を重ね、イワキのロングセラー商品と成長していきました。

その後、売れ行きが好調なことに自信を得て、外部生産をやめ、自社で組立てをすることにしました。

社長の藤中が戦時中の勤労動員の時に、旋盤を回したり魚雷の組立てをした経験が、『KM式万能シェーカー』の工作に役立ったわけです。どうやら人生で経験することに、すべて無駄はないようです。

KM式万能シェーカー

イワキ、ついに自社工場を持つ

こうして、『KM式万能シェーカー』の自社工場生産が始まりました。もっとも、表向きは「工場」といっても、借家の物置というのが実情でした。当時の藤中は、練馬区旭丘の借家に広島から呼び寄せた母や姉と同居していたのですが、そこの物置を部品置き場兼組立て場にしていたというわけです。知る人ぞ知る、イワキ「旭丘工場」です。

商売が好調になるにつれ場所が広がり、やがては家族が寝る場所さえも、日中は組立て場になってしまいました。しかし、ある時それが家主の知るところとなり「話が違う」と責めたてられ・・・とうとう引越しを余儀なくされてしまいます。

幸い『KM式万能シェーカー』の成功で貯えがあったので、思い切って家を買うことにしました。文句を言っていた家主は引っ越しのときに見送りに来てくれ、「うちの借家に住んだ人は仕事が増えて出ていく人が多いんだ」などと、妙な激励をしてくれたそうです。

時は1962年(昭和37年)。引っ越し先は、同じ練馬区内の旭町でした。思えば、本社は神田「旭」町、今までの工場は「旭」ヶ丘。そして今度は「旭」町。不思議と「旭」づくしとなりました。

なお、本社のあった神田旭町(現在は内神田)の通りは、後に「出世不動通り」と呼ばれるようになったそうです。どうやら縁起のよい場所だったようですね。

出世不動通り(内神田)

旭町には、まず10坪の組立て工場を建てました。これがイワキ最初の工場です!

間借りの工場から出発し、とうとう自社工場を持つまでになったと、社員みんなで喜びあったのは言うまでもありません。1962年(昭和37年)に操業を始め、その後数年のうちに隣接地を借り受けることができたので、2階建ての延べ50坪の寮付きの工場も増築しました。

2階建ての社員寮付き工場(練馬区旭町) 当時の社員数25名

1962年(昭和37年)当時の世相
重大ニュース
世界初ヨットで単独太平洋横断 / 北陸トンネル開通 / にせ千円札横行 / 東京-名古屋間ダイヤル市外通話開始
物価【運賃】
日本国有鉄道初乗り20円
【ビール】大びん125円
新商品 / 新番組
電子複写機(富士ゼロックス・富士写真光機)
小型ポータブルテレビ(ソニー)6万5千円
電子レンジ(早川電機工業/現シャープ)54万円
流行語「孤独との戦い」(太平洋横断 堀江謙一)/「無責任男」「わかっちゃいるけどやめられない」(植木等)
芸能
勝新太郎(31)と中村玉緒(23)が帝国ホテルで挙式 / 美空ひばり(25)と小林旭(24)が挙式。
気になる数字
東京都の常住人口が1000万人を突破(世界初の1000万都市に)/ 日本のテレビ受信契約者数が1000万を突破(普及率48.5%)

この建物は長い間独身社員の巣となり、「練馬寮」として愛され続けることになるのですが・・・

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