イワキ創業40周年の社史をもとに、イワキの歴史を紐解いていくこのコーナー。文字通り「ポンプに賭けた」男たちの熱いドラマを、お伝えしていきます。

価格に厳しい大阪で、初年度の2倍の売上げを達成!

1968(昭和43)年1月4日、ついに直販拠点の第1号である大阪営業所の開設を迎えることができたイワキ。しかし、大阪での商売はとても厳しいものでした。特に価格についてはほんとうに厳しく、「儲けを意識した商売をしよう」と自分に言い聞かせていた初代所長の佐藤でしたが、見積りでたたかれ、納品でたたかれ、請求するときにもたたかれ・・・はっきり言って、毎日が競争でした。

しかしそれは、とても充実した日々でもありました。夜な夜な仲間と飲みに行っては、営業は頭を使うべきか、体を張るべきかなどと議論を交わしました。そんなとき佐藤は、粘り強く日参して注文に結びつけるスタイルの自分は、きっと体を使うタイプだなと思ったりしたものです。佐藤はとにかく粘り強い男でした。それは、売り込むときだけでなく、なにか問題がおきたときでも、粘りに粘って解決していきました。

それに、一度でも付き合いのあった会社には、その後も変わらず精一杯尽くすので、しだいに信頼を得ていきました。こうした地味な努力が実ったのか、大阪営業所は徐々に売上げを伸ばしていきました。その勢いは次第に増し、営業所立ち上げ3年後の1971(昭和46)年には、初年度の約2倍、全社売上げの約15%の成果をあげるまでに成長したのです。

「きみ、行ってくれ」で名古屋営業所ヘ

一方、大阪営業所開設の翌年、1969(昭和44)年には、直販第2の拠点として,名古屋営業所が開設されました。所長は山田茂宏。昭和37年入社の26歳の若者でした。山田は岐阜の旧家の生まれでしたが、どうも地元におとなしくおさまっているようなタイプではなかったらしく、当時イワキに出入りしていた広告代理店の社員が山田と同郷だったことが縁となり、神田旭町のイワキ本社に面接を受けにやって来た人物です。

憧れの東京で自分が就職しようという会社は古いビルの2階で、階段を上るとギシギシ音がしました。そのあまりのボロさにやめて帰ろうかと思った山田でしたが、社長の藤中が自分のような若造を相手にしながらも、少しもいばらず、それどころか丁重に扱ってくれるのに感銘を受けたようです。

社長は会社の隣にあった食堂で、山田にカツカレーをご馳走してくれました。生まれて初めて食べたカツカレーの美味しさと社長の人柄にひかれて、山田は入社を決意しました。

面接で何がやりたいかと聞かれ,すかさず「営業です」と返答したので、てっきり営業部に配属かと思った矢先、社長に「まあ, まず勉強していらっしゃい」と言われ、入社早々練馬区旭丘の工場に送られました。そこで1年近く組み立てを手伝ったり、製品の配達をしたり、夜は夜で先輩たちと毎日違う銭湯に行ったりして、楽しく過ごしていました。

1963(昭和38)年に神田旭町の本社営業部に配属になりましたが、1965(昭和40)年に設立されたイワキのグループ会社株式会社レイシー(イワキの100%子会社であった株式会社レイシーを平成21年に合併)ヘ出向となってしまいました。そして、1968(昭和43)年10月に再びイワキヘ戻ると、今度はケミカルポンプ営業の勘を取り戻さなければならなくなりました。彼は学生時代から大の勉強ぎらいだったのですが、初めて「勉強したい」と思い、自ら進んで工場へ研修に行きました。

2ヵ月ほどで戻り営業部営業第二課係長として、さあこれからと思った矢先、山田は社長室に呼ばれました。

そこには、社長の藤中と当時次長の上條がいましたが、上條が先に口を開きました。
「きみは,岐阜出身だったな」
「そうです」山田は答えました。

続いて藤中が、
「今度,名古屋に営業所をつくるんだ」
「はい」
「名古屋と岐阜は近いよな……だからきみ、行ってくれ!」
3年近くケミカルポンプの営業から離れ少々自身喪失気味な部分を、これから少しずつ慣らしていこうと思っていた山田にとっては衝撃の辞令だったわけですが・・・

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