残された社史に基づき、イワキの歴史を紐解いていくこのコーナー。
文字通り「ポンプに賭けた」男たちの熱いドラマをお伝えしてきましたが、前回からは昨年(2019年)他界したイワキ創業者である藤中義昭の人生を振り返っております。

>>> (第54話)イワキ創業者 藤中義昭を振り返る ~ 人生のスタート ~

医師をしていた亡き父が守ってくれた命

前回は、藤中義昭の誕生から17歳までを振り返りました。1945(昭和20)年8月6日の朝、勤労奉仕先であった3階建ての軍需工場の建物の最上階にいた義昭は、目のくらむような強烈な光と大地をゆるがす「ドン」というさく裂音に凍りつきました。しばらくして我に返ると、そこには想像を絶する世界が広がっていたのです。

それは、人類が兵器として最初に使用した「原子爆弾」投下直後の光景でした。数千度とも言われる高温の熱線と、TNT火薬2万トン相当と言われる破壊力で、爆心地から半径500メートル以内の人々はほとんどが即死。爆風で見渡すかぎりほとんどの建物は全壊し、あちらこちらに赤い火の手が上がっていました。黒い埃と煙で人々の姿は黒く見え、顔や手足は皮がペロリと焼け落ち、ケロイド状の火傷やガラスの破片で血まみれになっていたのです。それはまさに生き地獄でした。このときの死者、行方不明者はひかえめにみても約20万人におよんだといいます。

こうして、義昭たちは爆心地から1キロの場所で、人類最初の被爆者となりました。町は暗黒の焦土と化し、朝だというのに空は真っ暗で、ところどころに上がる火の手が明るく見えるだけで、町は不気味に静かでしたが、ふと家の方角が火の海となっていることに気づきました。

自宅にいるはずの母と妹、近くの軍需工場にいる姉たちのことが心配でたまらなくなりましたが、義昭は安全な場所に避難すべく、山の手にある叔母の家をめざしました。叔母の家に行くまでには、ふたつの川を越さなければなりません。橋のひとつは焼け落ちていましたが、幸い干潮で水がひいていたので、浅瀬をなんとか渡ることができました。

そうしてたどり着いた叔母の家も無傷ではなく、屋根は吹き飛び、窓や障子もなくなって壁は崩れ落ちていました。それから数時間後、義昭の母、姉、妹も、命からがら叔母の家にたどりつくことができました。いずれも軽い傷を負っただけで、その後も原爆後遺症もなく過ごせたことは、たいへんな幸せでありました。

少し神がかった言い方をすると、医師として命と真摯に向き合ってきた亡き父が守ってくれたのかもしれない。義昭の胸にふとそんな思いがよぎり、生涯感謝の気持ちを忘れませんでした。

しかし悲しいことに、義昭が兄のように慕った従兄弟は被爆。悲惨な姿で自宅に戻り、手当てのかいもなく痛ましい最期を遂げました。従兄弟は今も広島の慰霊碑の下に眠っています。

叔母の家でタケノコ生活はじまる

焼け出された家族は、そのまま叔母の家に身を寄せることになり、母、 4人の姉妹、祖母、叔母とともに、そこでなんとか雨露をしのいで暮らしました。3日後の8月9日には長崎市に原爆が投下され、その後の調査で7万とも12万とも言われる人々が犠牲となり、長崎の町は灰塵と化したのです。やがてむかえた8月15日。日本の全面降伏によって太平洋戦争は終結しました。爆撃の恐怖からは解放されましたが、それが戦後の困窮生活のはじまりでもありました。

タケノコ生活・・・それは売り食いの生活でした。頼みの火災保険は戦争で免責債務となり、わずかに戻った金も新円の切替えで二束三文でしたので、結局は父の遺産を売ってしのぐしかありませんでした。父が亡くなった後、診療所を知り合いの医者に貸していたことがあり、そのとき少しばかりですが、使わなくなった父の医療器具や薬を親戚の家に預けておいたのです。それが唯一の支えとなってくれました。

当時、象牙の聴診器や顕微鏡などの医療器具は貴重品でした。壊れて修理したものでもすぐに売れ、薬品も少しでしたが残っており、エチルアルコールを薄めたものと食べ物とを交換したり、薬品を使って甘味料をつくって売ったりもしました。しかし、いずれも一時しのぎにすぎず、 8人の家族が生活するにはとうてい足りませんでした。

借地の畑で野菜を育てましたが、食べごろになると誰かが持ち去ってしまいます。山道を4キロばかり行った河原で、石ころを片づけて小さな畑をつくることもしました。そうした慣れない畑仕事で疲れ切ってしまった母を背負って帰ることも度々でした。

勉学を志し、ひとり三島ヘ

こうしてタケノコ生活を送っていた義昭は、しばらくすると内から湧き上がる衝動を抑えきれなくなりました。とにかく勉強がしたくてたまらなかったのです。

そこで、働きながら勉強をしようと考え、戦災に遭っていなかった静岡県の三島にある日本大学三島分校へ入学しました。三島は富士山の裾野で、広々とした場所でした。その自然の風景だけが唯一心のなぐさめであったことは言うまでもありません。

下宿先はもと池田病院という病院の1室でした。叔父の俳句仲間で、三島にある禅宗の竜沢寺の住職をしていた中川宗渕という方の紹介でした。そこには、他にも4人くらいの学生が下宿していました。生活のために働きながら学校通いをするつもりだったのですが、働く先がない、商店もなければ工場もない、しかも誰もかれも自分が食べるのに精一杯で、地方から来た保護者もない10代の少年にまわす仕事などなかったのです。

最初の1年間、口に入るものといえばイモばかりでした。そのイモでさえ手に入れるにはたいへんな苦労が必要で、生きるためにはちょっとした悪知恵も必要でした。1度だけですが、かつぎ屋(第二次大戦後の昭和20年代に、米などの統制物資を買い入れ、かついで売り歩いた人。)のまねごとをして、広島に帰省する際に三島で米を仕入れ、途中下車して大阪で売ったこともありました。そうして手に入れた少しの金は、参考書や汽車賃の足しにしました。

そんな状態で仕事と勉学を両立させるのは無理でしたが、義昭は意地になって頑張れるだけ頑張りました。しかし休学が続き、ついに学業をあきらめて広島へ戻ることになったのですが・・・この続きはまた次回にいたしましょう。

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