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ポンプに賭けた男たち
残された社史に基づき、イワキの歴史を紐解いていくこのコーナー。
文字通り「ポンプに賭けた」男たちの熱いドラマをお伝えしてきましたが、「第54話」からは、昨年(2019年)他界したイワキ創業者である藤中義昭の人生を振り返っております。
前回は、学業をあきらめた義昭が大阪のガラスメーカーに就職するまでをお話しました。1948(昭和23)年、義昭20歳の春でしたが、日々懸命に働くうちに、ガラス素材そのものへの興味や製造技術への探求心が抑えきれなくなっていきました。そこで毎日、毎日誰もいない工場に残って原料の減り具合をノートにつけていき、それを翌日の製品の仕上がりと照合しては、それぞれの原料の特性をつかんでいくという独自の研究を始めたのです。
しかし、それだけでは飽き足らず、大阪府池田市にある大阪工業試験所が全国に数力所ある試験所のなかでも特に窯業部門のガラス部が有名であることを知ると、義昭はすぐに訪ねていくことにしました。ガラス製造のことを知りたい一心で、他のことは全く頭になかったのです。
じつはガラス製造の専門家で著書もある田村博士が工業試験所にいらっしゃることを知っていたので、まずは田村博士を訪ねて行ったのですが、博士は他のガラス製造会社の技術顧間をしているということですぐに諦め、その助手の研究員の方にお目にかかりました。
もちろん、いきなりの訪問に先方は驚いておいででしたが、若さと熱心さに心を許してくれたのか、いろいろと教えてくださいました。それからは毎日4時に工場が終わると、自転車で大阪工業試験所にかけつけ、研究員を質問攻めにし、相手の都合さえつけば日曜日にも通いました。
2年近く熱中したおかげで、ガラスの組成、基礎理論、製造技法などひととおりを学ぶことができたのですが、仕事の内容は相変わらずでした。そんなとき上司が退職し、別のガラス会社に就職を決めました。そしてその人に誘われるがままに、義昭も転職することになったのであります。
転職先では、ようやく念願の調合や製造をやらせてもらえることになりました。しかし、なぜかその会社はしだいに経営不振に陥っていきました。そんな中、1949(昭和24)年、21歳の春に東京行きの話が持ち上がりました。初めて就職した会社にいた時からの知人が持ちかけてきた話でした。
彼は東京の原宿に住むアメリカ人バイヤーで、元いた会社にカバーグラスを買い付けに来ていた人物でした。彼とはなんとなくウマの合う間柄でした。とはいっても、彼は日本語を話せないので、しかたなく義昭が不慣れな英語をあやつって会話をしていました。彼は日本で買い付けたカバーグラスを輸出していたのですが、ある時、後から参入して来たバイヤーとの競争に負け、そのメーカーから締め出されることになってしまったのです。
そのような経緯から、彼に「東京で工場をやらないか」と勧められたというわけです。「資金援助はできないが、製品は全部買い取る」という話でした。彼は日本で仕入れたカバーグラスを、何倍もの値段で輸出していたようですから採算は十分でした。「いつか自分で事業を」と考えていたので、これは義昭にとって独立の絶好のチャンスと思えたのです。
さっそく知り合いのガラス職人たちに「上京してガラス工場をやらないか」と打診してみたところ、東京で一旗揚げようという威勢のよい仲間が集まりました。広島の母や姉妹には、落ち着いたら連絡するからと言い置いて、すぐさま一人で夜行列車に乗り込みました。東京まで十数時間もかかる夜行の旅でしたが、新事業の計画に胸ははずみ、希望ではちきれんばかりになっていました。
自信満々で上京した義昭のやることは、ただ「スポンサー」を探すだけ。製造技術は身につけていましたし、販路も決まっているわけです。しかも、当時の花形事業「輸出品」を扱う事業であり、採算面も申し分ないはずでしたので、きっとよいスポンサーが見つかると信じていました。
自分でまとめた「輸出カバーグラスエ場設立計画書」を持って、産業復興公団総裁から、銀行、実業家など、あらゆるつてをたどって事業の説明をしました。しかし、感心したり、褒めたりはしてくれるのですが、スポンサーどころか、誰もパートナーにさえなってくれようとはしませんでした。
「自己資金や事業実績がなければ、どんなによい計画であっても協力者は現れない!」
このことに気づくのに、そう時間はかかりませんでした。ただでさえ、世の企業が資金難にあえいでいた時代のこと。広島からぽっと出の若造にお金を出すわけもありません。こうして「新たな教訓」を得た義昭でしたが・・・この続きはまた次回にいたしましょう。
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