残された社史に基づき、イワキの歴史を紐解いていくこのコーナー。文字通り「ポンプに賭けた」男たちの熱いドラマをお伝えしてまいりましたが、第60話までの創業者編に続き、第61話からは【レイシー編】として、水生生物や環境研究分野におけるイワキのブランド「レイシー」の歴史を紐解いております。

>>> (第62話)ケミカルポンプメーカーが観賞魚ビジネスを始めた理由

営業作戦その1:専門家のお墨付きをもらうべく、いざ上野動物園へ

前回は、株式会社レイシー設立当時のお話をしました。1965(昭和40)年8月、設立メンバーは4名、当時イワキが分室として使用していた木造ビルの一角が会社の所在地でありました。

そんな中、営業担当に抜擢された山田は、動揺を隠せない様子でした。当時ケミカルポンプの営業マンとしてようやく一本立ちをし、「さあこれからどんどんポンプを売ってやるぞ!」とばかり意気込んでいた矢先、ひとり出向を命ぜられたことから、「なぜ俺だけが?」と、仲間外れにされたような気持になっていたようです。

しかし、最初は悩んだ山田もすぐに「引き受けたからにはイワキ精神をもって堂々とやろう。そして一日も早く軌道に乗せよう!」と気持ちを切り替え、そのために自分がやらなければならないことをとことん考えたと言います。

最初の売上げは、例の山本海水魚店がつくってくれました。それを引き継ぐようにして、まず都内の熱帯魚店を回ってみましたが、なかなか思ったような手応えは得られませんでした。

「これでは会社として成り立たない」・・・そこで、イワキの営業トップ上條から学んだイワキ流の営業を基礎として、自分なりに作戦を立ててみることにしました。

  • 作戦その1:
    「槽外ろ過方式」を広めて、世間に、業界に認知させる。そして、熱帯性海水魚だけでなく、金魚や鯉の飼育にも広める
  • 作戦その2:
    全国の問屋に販売するルートをつくる(ポンプでいえば代理店制度)

これらの作戦を展開するには、まずは専門家のお墨付きをいただくのが手っとり早いのではないかと考えました。近いところにあって、一番有名な水族館は上野動物園の中にありました。そこで山田は、さっそく上野動物園へと向かいました。

その時お目にかかったのは、飼育課長の杉浦氏という著書もある有名な人物でした。杉浦氏はたいそう気さくで優しく、いきなり訪れた山田の話を気持ちよく聞いてくださいました。その場でお墨付きをいただくことはできませんでしたが、レイシーのろ過ユニットー式を使ってみることには、快く承知してくださいました。山田は杉浦氏に「使ってみてよい装置だったならば、ぜひ口コミででも広めてください」とお願いして動物園を後にしました。

なるほど、専門家になればなるほど、自分の発言に影響力があるので安易に推薦はしないものです。そのことがわかったので、次は「装置を人目につく場所に置けないか」と考えました。そして、そのまま上野駅に足を向けたのでした。

目指すは駅長室。誰が責任者で、誰が偉い人なのかもわからないまま話をして、「熱帯魚の水槽をお貸ししますから、駅構内に置かせてください」とお願いし、なんとか承諾を得ることができました。幅90センチほどの水槽に美しい熱帯性海水魚を入れて、駅の人通りのある場所に置かせてもらえることになったのです。

ろ過ユニットにはもちろん「レイシー」の名前が目立つように貼りつけてあります。その要領で、三越本店、京王デパートの屋上など、都内のあちこちに、レイシーの装置をつけた水槽を置いてもらう作戦は成功していきました。

営業作戦その2:全国行脚で問屋を開拓

水族館だけでなく、駅やデパートにレイシーのろ過ユニットを設置する交渉を続けながら、次なる作戦である「問屋制度」にとりかかっていきました。当時、ペットショップやデパートの屋上で売っている観賞魚やその飼育装置などを扱う問屋は、観賞魚問屋、または金魚・鯉問屋と呼ばれていましたが、全国に売るためには、各地の問屋と取り引きしてもらわなければなりません。

それから問屋巡り、出張につぐ出張の日々が始まりました。たいていは、夜行列車で朝、現地に到着し、簡単に食事を済ませた後は電話ボックスに飛び込み、備えつけの職業別電話帳で観賞魚覧のページを開き、大きな広告を出している問屋から3~4社を選び、電話番号を控えます。

そこから順に電話をかけて、一軒一軒訪ねていくのです。一日かけて一通り回り、夕方までに目星をつけ、夜にはまた次の土地へ移動。そこでまた電話ボックスヘ直行し、翌朝より行動開始。ひとくぎりついたら東京へ戻ってまた出発・・・。

最初の2年ほどは、ほぼそんな毎日だったようですが、そのやり方こそ、まさにイワキで学んだ「戦法」でした。いうなれば、イワキの営業として教わった営業のやり方や、販売網の広げ方を実技試験されているような毎日だったのです。そして山田はみごと試験にパスし、レイシーは一県一問屋制度を着実に作っていくことができました。

レイシーのろ過装置 1966(昭和41)年、展示会場で
展示会場で製品説明をする山田 1966(昭和41)年

10年使えるレイシーのポンプ

もちろん、レイシーが伸びたのはその製品がすぐれていたからでもあります。レイシーのろ過ユニットは、従来の底面ろ過装置に比べ、当時で10倍近い価格もしたわけですが、ただ、機能も性能も、底面ろ過装置よりだんぜん優れていたのです。

イワキのポンプは、ふだん薬品を送っているポンプですから、塩分を含んだ水くらいはなんともありません。それでも初期のうちは、予期せぬ不具合がいくつか発生したようです。

一つ目は、シャフトが海水面の部分に限って、イオンの電気分解で折れてしまうこと。二つ目は、海水が蒸発する塩分水蒸気によって、モータが錆びて止まってしまったこと。さらに三つ目は、モータブラケットの塗装がはがれることでした。

そこで当時の技術陣は、不具合に見合った改善・改良を重ね、次々と問題を解決していきました。

製品の完成度が高まるにつれ、信頼性はクチコミで広まり、必然的にその品質も広く認知されていきました。

レイシーフィルター「ダック」 1973(昭和48)年、展示会場で
洋風池「トレビ」、池用ろ過装置「レイシークリーナー」 1973(昭和48)年、展示会場で

また、ポンプを水槽のコーナーに固定する「クランプ」という器具の開発によって、いっそうレイシーのろ過ユニットの便利さが増したともいえ、こうした技術の蓄積の結果が「10年使えるレイシーポンプ」という評判に結びついていったのですが・・・・・・この続きはまた次回にいたしましょう。

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